家族で秋田に行きました。
秋田空港に到着すると「なまはげ」と「小町娘」のお出迎えです。
この大きな「なまはげ」は目が光るので夜の到着便で来るとビックリするそうです。
なまはげ
なまはげは、秋田県の男鹿半島周辺で大晦日(12月31日)に行われてきた伝統行事で、大きな出刃包丁を持って、鬼の面を付け、藁の衣装をまとった神の使い(来訪神)を指すそうです。
鬼じゃなくて神様なんですね。
なまはげに扮した村人は家々を訪れ「泣ぐ子(ゴ)は居ねがー」「悪い子(ゴ)は居ねがー」と奇声を発しながら練り歩き、家に入って怠け者や子供、初嫁を探して暴れます。
怠惰や不和などの悪事を諌め、災いを祓うのです。
「なまはげ」は「つるっパゲの鬼」だとばかり思っていましたが、実は「生身剥ぎ」という言葉が語源だそうです。
手にしている包丁は「火斑(ひだこ)を剥ぐ」ためのもの。
火斑とは、炉端にかじりついていると手足にできる赤いまだら模様のことを言い、火斑を方言でナモミと言います。
そのナモミを剥ぎ取り、怠け者を戒めるための「ナモミ剥ぎ」が訛り「なまはげ」になったそうです。
「へえ~。」
人間を襲うんじゃなくて、働け~って 励ましてるんですかね。
なま励げ。。。。。
秋田駅にもしっかり”なまはげ”の お出迎え
小野小町に扮した小町娘
なまはげの左側に立っているのが小町娘です。
世界三大美人の一人と称された平安時代を代表する歌人、小野小町(おののこまち)に因んだ祭りが毎年湯沢市でおこなわれていて、平安時代の装束を着た7人の小町娘が和歌を朗詠し奉納します。
小野小町の「百夜通い伝説」
小野小町は、今から1200年程昔の809年に出羽の国・福富の荘桐の木田(現在の湯沢市小野字桐木田)に生まれた平安の女流歌人です。
幼い頃から歌や踊り、琴、書道と、なんでも上手にこなし、13才の頃には都へのぼり、都の風習や教養を身につけました。
宮中に仕えるようになった小町ですが、その容姿の美しさと優れた才能から多くの女官の中でも、比類なしと称され、その歌は六歌仙、三十六歌仙に残っています。
京の都にあっても、故郷を恋しく思う気持ちは消えることなく、小町が36才の時、宮中を退き、小野の里へと帰郷し、庵を造って静かに歌を読み暮らしていました。
そんな時、小町を想う`深草少将`は、小町に会いたさから郡代職を願い出て、都から小野の里へとやってきました。
深草少将は、会いたい旨の恋文を小町へと送りました。
しかし、小町はすぐに少将と会おうとせず、「わたしを心から慕ってくださるなら、高土手に毎日一株づつ芍薬を植えて百株にしていただけませんか。約束通り百株になりましたら、あなたの御心にそいましょう」と、伝えました。
少将はこの返事通り、野山から芍薬を堀り取らせ、毎日一株づつ植えては帰っていく日々を続けました。
実は小町は、この頃疱瘡を患っていたのです。
百夜のうちに疱瘡も治るだろうと、磯前(いそざき)神社の清水で顔を洗い、早く治るよう祈っていました。
深草少将は一日も欠かすことなく99本の芍薬を植え続けました。
そして、いよいよ百日目の夜です。
この日は秋雨が降り続いたあとで、川にかかった柴で編んだ橋はひどく濡れていました。
小町と会える日がきたと喜び、従者がとめるのもきかず、少将は「百夜通いの誓いを果たす」と、通い慣れた道を百本目の芍薬をもって出かけました。
しかし、少将は橋ごと流され、不幸にも亡くなってしまったのです。
小町は深い悲しみに暮れ、少将の亡骸を森子山(現在の二ツ森)に葬ると、供養の地蔵菩薩を作り向野寺に安置しました。
芍薬には99首の歌を捧げ、少将の仮の宿だった長鮮寺には板碑を建て回向しました。
その後岩屋堂に住んだ小町は、世を避け自像を刻んで、92才で亡くなったといわれます。
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